日本は今まで年功序列であったが、急に成果主義にすると失敗するリスクがあると思っている 人が多いであろう。 しかしやらなければならないことではないだろうか? 成果主義の疑問点について考察したい。
成果を公平、公正に評価するのは難しい?
タイムカードの残業時間を見て、たくさん残業しているから優秀な人間だという評価ならば小学生にもできる。 勤続年数や年齢を見るだけですむなら簡単だ。 役職をもらうということは、命令する権利があたえられるが、その命令で起こったことに対する責任を負わなければならないということ。 たしかに公平、公正に評価するのは難しく、個人的な私情をはさんでしまったり、個人的な価値観に基づき評価をしてしまうことがある。
たとえば物の価値、リンゴ1個が100円で売っている店があり、1個が200円で売っている店があるとする。 はたして1個が200円のリンゴはリンゴ1個が100円の2倍の価値はあるのか? 1個が200円で売っている人はこれは良いリンゴだから他より2倍の値段をつけても買ってもらえると思っているわけだ。 本当においしいリンゴであれば2倍の値段でも売れるし、その方が儲かる。 100円のリンゴと変わらないのに2倍の値段で売っているならば、あそこの店は「ぼっている」と言うことでどの客もあいてにしてもらえなくなるだろう。
人材も市場原理に基づき比較、競争されるべきではないだろうか? 何がその会社にとって価値のある人材かは絶対的な基準はない。会社だって個性があるわけだから。 もしも市場価格よりも安い給料しか払えないならば転職すればよい。 改革を行わずワーキング・プアを続ける会社、経営者が自分のポケットマネーを増やすことしか考えていない会社には、 従業員がいなくなってしまう。そうなりたくなかったら改革を進めるとか社長の交代がいやでもやらなければならなくなる。 会社も比較、評価を受けるようでないと人が大事にされる良い社会にはならない。
会社と労働者の関係は選び/選ばれる関係でなければならない。 決してお金で縛っておいて、自分の都合の良い歯車にしたてあげるものではない。 いつも不公平な査定をする管理職は管理職としての適性がないのであるから降格にすればよい。 個人的な価値観で決めるのではなく、会社として統一的な基準をつくること。 完全に公平、公正にするのは困難であるが、部下と交渉して納得させる、信頼関係を確立することが重要だ。
才能や努力が報われないのでは?
成果主義とは、成果に対して報酬が支払われるものであるから、才能があって、努力したからといって給料が高くなるとは限らない。 努力したのに少ししか給料がもらえないと感情的になるかもしれない。 そのようなときに、同僚に対してひがんだり、足を引っ張ったりしてはいけない。
なぜ成果が出せなかったか、どのような改善が必要かをよく考え、上司も本人にアドバイスをする必要があるであろう。 努力をしてもその努力があさっての方向であったならば成果にはならない。 才能があってもその才能が生かされない職種・仕事の仕方であったならば成果にはならない。
日本では、全ての人が「同じやり方をしなければならない」(護送船団方式)とか、「努力=たくさん残業すること」のように 狭い意味でとらえられてしまう傾向にある。自宅での学習、新しいやり方にチャレンジ、積極的に転属なども努力である。 プロの仕事とは成果を求められるもの。努力をすることが目的ではない。
日本人は本音で話せないので新しい人間関係をうまく構築できない。それが同じやり方に執着したり転属を拒む理由になっている。 努力しても成果に結びつかないならば、職種を変えてもらうとか、上司を変えてもらう、転属するなど、 人材の最適化が必要。すばらしい才能を持ちながら、その才能を発揮できていない人が多いのではないだろうか?
成果が出るまで時間がかかる
基礎開発や教育などは、仕事をしてもそれが売り上げに反映されるには数年、あるいは十年以上かかる場合もある。 日本が成果主義に失敗する理由は、今月の売り上げ/今年の売り上げのみを成果としてしまい、成果にカウントしない。 そしてカウントされない基礎開発や教育をやらなくなることにある。
すぐにお金に結びつかないこれらの仕事でも十年先に会社が存続するために必要なことであるということは 1人1人の労働者に意識をさせ、そのような社内文化を創っていく。 よい社内文化を創って行くのは時間のかかることであるがやらなければならないことだ。
管理職の作業工数が増える
公平な評価のためには作業工数が必要なのは当然であろう。 いままで管理とは、たくさん残業させるために見張っておくとか、仕事のやり方を強制することであった。 成果で給料を決めるのであれば旧来の仕事は必要なくなるのであるからそれほどの工数増加にはならないはずだ。 工数がふえるふえるといっているのは成果主義を導入しても「残業させるために見張っておく、仕事のやり方を強制する」 ということをしようとしているから。
それと日本の管理職は管理だけではなく実務もやっていることが多い。仕事の役割分担があいまいだ。 管理職のスキルである「公平に評価する能力」「顧客、経営者、現場のすり合わせ能力」をみがくべきだ。
定期的な交渉が必要
定期的な交渉が必要というのは当然だ。それを億劫と思ってはいけない。 良い仕事、会社と労働者が長くつき合うことができるかは、win-winの関係になること、あるいは信頼関係にあるわけだから。 今まで交渉なしでゴリオシをし、不満があってもガマン・ガマンという仕事の仕方が誤りなのだ。 感情的にならず論理的にプロジェクトにかかわる全ての人が等しく幸福になれるということ。 お客様優先にした方が儲かる。従業員満足度はどうでもいい。弱い人間が顧客と経営者、両方から搾取を受けるような会社ではダメだ。
あまり頻繁な交渉はたいへんであるから1年に1ど、あるいは2どぐらいで良いから、 労働者本人と部長(または社長)とマンツーマンで交渉する席を設ける。ボーナス前にあなたの査定はどのようになって その結果ボーナスはいくらですと言い。それに対して異議はあるか? 仕事をしていて不便な点、会社の改善が必要な点があればいってほしい。 ここで話した内容は、査定に影響しないということを明確にして本音で話せるようにする。
成果主義に適さない職種があるのでは?
誰にでもできるような仕事は、利益率が低く、成果主義で競争させてもあまり意味が無い。 たとえば総務の仕事などは時給をみな同じにしてしまい、年齢/勤続年数による格差をなくしてしまうのも良いかもしれない。 年功序列は企業に人をしばっておくためのしくみなので、誰にでもできる仕事に対してそのようなコストをかける必要は無い。 そのような仕事は一括してアウトソーシング(派遣/請負)にしてしまい、正社員は利益率のとれる本業に選択/集中という方法もある。
すべての人がたくさんお金をもらえる仕事が幸福だと思っているわけではない。 給料が少なくても、家族と過ごせる時間、趣味に打ち込む時間があたえられているならば搾取ではない。 このような仕事は、積極的にワークシュアリングをし、短時間労働を選べるようにする。 お金より時間が大切だと思っているのはその人の生き方であるので、女性だけではなく男性も希望すれば その職種を選べるようにすること。65歳以上の人間に仕事をあたえることは社会に対する奉仕であろう。 本人の希望で働き方を選べること。労働の多様化だ。
同一労働・同一賃金
この言葉には、よいレッテルを持った人間はあまり働かなくても高給をもらっても良いという意味が込められている。正社員(あるいは経営者)になっている人はそれなりの努力をしてきた人だから、社会的責任があるからたくさんお金をもらうのは当然だという主張だ。しかし顧客の立場に立って考えてみてほしい。部長が率先してやった仕事だから、平社員がやった時の2倍の料金を請求しますと言われたらどうだろう? 平社員にやってもらった方が1/2の料金になるのだから平社員にやらせればいいじゃんとなるはずだ。部長にやらせた方が2倍ぐらい価値のあるすばらしい商品を作ってくれるならば2倍の給料の部長にも仕事が来る。お金を払うのは顧客だ。重要なのは役職ではなく仕事の成果である。市場原理とはそういうものだ。必要なのは同一成果・同一賃金である。
社長や部長のレッテルを持っている人が社会的責任があるのかは疑問だ。最近、倒産寸前の大手企業があるが、果たして社長や部長の降格はあっただろうか? みんな都合の悪いことは隠し、自分のレッテルを守ろうとする。責任を果たしていない。
正社員は長い間努力をしてきたからたくさんお金をもらう権利がある? 派遣やパートでも正社員とおなじぐらい、いやそれ以上に長期間がんばってきた人もいるが正社員と同じ給料をもらえているだろうか? 不況になった時に首を切る予定の人間だからといいスズメの涙ではないだろうか? 実際に大手企業の正社員の働きぶりを見ていると危機感がなくダラダラとやっている人が多い。自分はさぼっても正社員だから切られる心配がないと慢心している。派遣の方はサボっていると切られるので一生懸命仕事をしているように見える。
ようは一度、利権を手にした人間が必死でその利権を守ろうとしている。正社員でも派遣でもさぼっている人もいるが、努力している人もいる。役職というのは価値にはならない。会社に人を縛っておくためのツールにすぎない。レッテルにこだわってはいけない。レッテルに惑わされないで成果をきちんと評価することが重要だ。
最後に
日本は年功序列である。 若いから、女性だからといって、同じ成果で給料が安くなってしまうのは不公平がある。 日本には下剋上が必要。成果が出せなければ給料が少なくなってしまったり、降格も必要であろう。 成果を給料に反映させているといっても20年後、30年後ではグローバル化についていけない。 管理職に評価をさせているといっておきながらその評価は年齢や勤続年数でエスカレータ式になるように評価をつけていた (後から入ってきた人間が高い給料をもらうとブーブーいうから:つまりことなかれ主義)。 そんな評価のつけ方では実質的に年功序列と等しい。 そもそも「このような計算をして評定がいくつになったからあなたの給料はいくらです。」といったことが隠蔽されている。 どのように評価したか透明性が無いのではほんとうの成果主義にはならない。 情報を公開し、経営者と労働者が交渉をすること。
日本の年功序列というのは、人を企業にしばっておくためのシステムだ。 人を教育するのはコストがかかるから、建前では転職の自由があるとしておいて、転職すると今まで積み上げた給料水準や役職が失われる。 どこの会社も年功序列であるから、転職すると大損するぞとおどしをかけているわけだ。 日本の企業で教育といっているのは全ての人に「同じ仕事の仕方」を強要することを示しているようだ。 特定の企業内部、特定の部署内部でしか通用しない慣例にこだわりを強く持っている。 どこの会社でも通用する、技術的なことやコモンセンスについては教育コストをかけたくないようだ。
上司が昔、実務をやっていた頃、成功した手法が安全なのでその方法を強要するとか、 みんなと同じ手法で仕事をしていれば「努力したのだから失敗しても許してもらえる」とか、 そんな考え方から、同じやり方に執着し、その教育コストを掛けすぎている。 諸外国では人材流動化が前提なので「同じ仕事の仕方」にコストを掛けない。 日本も「同じ仕事の仕方」にこだわらないで成果を評価することに工数を掛けるようにするべきだ。
技術的な知識、コモンセンスの部分は自宅で学習できるわけだから、成果を出せば給料を上げ、 自主的に自宅学習をするようにしむければ良い。 (会社から課題をあたえ、強制的に学習させる場合はその分の残業代を支給する必要が出る)
確かに人間の考え方や生き方はすぐには変わらないものだ。 だからこそすぐに行動を始め、少しずつ、段階的に成果主義に移行する必要がある。